『今泉定助と近代神道』
主査 阪本是丸教授
副査 武田秀章教授
國學院大學大学院
116期 文学研究科(神道学専攻)
志水秋由
はじめに ―研究概観― (2)
第一章 今泉定助と白石神明社
第一節 今泉定助を巡る人々 (3)
第二節 今泉定助と「同年会」 (5)
第二章 今泉定助の皇道思想
第一節 皇祖皇宗の遺訓としての皇道思想 (7)
第二節 皇道思想から見た川面神学 (9)
第三節 地域共同体指導原理と皇道思想 (11)
おわりに ―残された課題― (13)
はじめに ―研究概観―
現代における神社と地域共同体との関係は、「祭り」と言う自治活動による地域社会の一体感、活性化の創設にあると自治会の神社奉賛会役員を、二十年間担当して常々感じてきた。その中にあって、この活動に対して祭政分離、宗教の自由等に関連して何度か自治会総会で論議が起こり、自治会役員がこれに対応してきた。その中で「祭り」の指導者と目される神道人の、これらの事に関する関わり合いは、私の経験では「祝詞奏上」等祭祀のみの関係で、地域共同体との繋がりはなく、飽くまで主体は地域共同体の人々である。
これは、明治十五年官国幣社神官の教導職兼務の廃止による、神官の職務を神祇祭祀のみに限定し、いっさいの教化活動から撤退させた事が、直接関係は及ばなかった府県社以下の神社においても、いまだに影響を与えているとしか考えられない。
その中で近代日本において、国家を中心に置いた地域共同体に対して、国民教化活動を独自の思想のもとに行なった、数少ない神道人の一人として、今泉定助・文久三年二月九日〜昭和十九年九月十一日午後二時、八十二歳で帰幽(明治七年から昭和七年まで定介を名乗る)・がいたことを知ったのは数年前だった。その原因は、現在、神道人ですら今泉定助の名を知らぬ人々が多数を占めている状況(1)によるものである。
しかし今泉は、明治・大正・昭和戦前期に亘って神社界のみならず日本全体において、教育・思想活動で大きな足跡を残した人物である。そして昭和初頭以降は独自の神道論=皇道思想を持って多くの講演、著作をなし、
敗戦による混乱なかりせば、荷田、加茂、本居、平田の国学の四大人に加へて五大人とされ、又は、大国隆正を含めて六大人と称へられ得たであろう(2)。
と頌せられていた。
しかしそれにかかわらず、否、それ故、敗戦後は日本を中心に置いた、地域共同体を戦前リードしてきた思想は、全面的に否定された。このことにより、今泉は阪本是丸氏の指摘する様に(3)、歴史から忘却ないし無視された存在となっている。それは『古事類苑』『故実叢書』等の編纂で、吉川半七時代から今泉と関係が深い吉川弘文館が版元で、日本史に関する最も大型で詳細な内容の辞典として定評のある『国史大辞典』に、「今泉定助」の項目はないことからも言える(4)。
また今泉の故郷である、白石市発行の『白石市史第一巻通史編』(昭和五十四年)においても、今泉関係の記述は、「中央・地方を問わず暗い戦争に突入する騒然たる空気」の漂う中での暗い事例(白石警察署の火の見やぐらにサイレン備え付け・白石中学校でも兎狩り雪中行軍)の一つとしてのみ指摘され、一行だけ唐突に、
郷土の生んだ右翼の国粋学者の最高権威、今泉定介が『国体原理』を出版(十年十二月)し(六〇八頁)
と、取って付けた如き記載あるのみである。
これは白石市においても、前掲の『白石市史』に、
終戦の後で、マッカーサー司令部の命令によって、日清日露戦役以降の各地の忠霊塔・忠魂碑・尽忠碑は廃棄すべしという厳命があった。そのため太平小学校に建立してあった忠魂碑は、粉々にくだかれて道路に廃棄された。また大鷹沢小学校内にあった忠魂碑は倒され埋没され、二十七年になって改めて掘り起され、八枚田孝子堂に移されて建てなおされた(5)。
と記述があると同じ運命を、白石市に建立された「今泉記念碑」(6)も辿り、
次が今泉定助先生と菅野円蔵翁の歌碑です。この歌碑は現在の市役所のところにあったのが戦後、土中に埋められ、講和条約(昭和二十六年九月九日サンフランシスコ講和条約)が結ばれてから掘出され(その後市役所新設に伴い)公園に移されたのですよ(7)。
と言う占領軍政策の影響が、色濃く白石市史編纂時(昭和五十四年)に、残されたことによるものだと思われる。
これに対して、日本大学今泉研究所(8)を中心に門弟によって、今泉教学は戦後継承が行われ、昭和四十四年から四十五年にかけては、同研究所から『今泉定助先生研究全集』全三巻(9)が出版され、後世への今泉の学説継承の核ができた。そしてこれを教本に、今泉研究所に夜間一年制の「日本精神講座」が、同四十五年四月開講され、二十年余に亘り二百名余の修了生が巣立ち、その間の同五十八年一月には『日本大学今泉研究所紀要第一集』(10)を発行し、その後、修了生を中心に編集を行ったのが、平成六年に出版された『今泉定助先生五十年祭記念誌 源泉への回帰』(新生創販)(11)である。しかし今泉没後六十三年を経た今日、その思想継承の中心である日本大学今泉研究所は、日本大学側の事情により現在活動を中断し、管理は同大精神文化研究所が、引き継いでいる状況に至っている。
しかし、敗戦後六十二年を過ぎた現在、戦前の日本の見直しが叫ばれる中にあって、「無気力にして無能」と評価される国家神道体制におもねず、神道人(12)として地域共同体の人々に対し、教化の道を貫いた今泉の思想・活動は、阪本是丸氏も言うように(13)、十分に研究に値する人物であると思慮する。
この現在にも通用する神道人の実像を、『今泉定助先生研究全集』全三巻を拠り所に、生地白石における神明社を中心とした地域共同体との関係を軸にして、先行業績、新たな史料を踏まえ、大正期の川面凡児神学との出会いによる皇道思想形成を、断片的ながらも検証を加えることによって捉え、神道人今泉定助の再評価促す一石となるべく本論をスタートさせたい。
第一章 今泉定助と白石神明社
第一節 今泉定助を巡る人々
今泉定助は文久三年二月九日(一八六三年)仙台藩家老片倉家家中今泉丈太夫伝吉の三男として、奥州白石城下桜小路の武家屋敷で生まれた。その後、慶応四年の戊辰戦争における奥羽越列藩同盟の敗北によって、一千余戸の片倉家旧臣は総て無禄、帰農、自営の道を歩み、今泉も貧窮のどん底に至った。
この様な中で、明治七年(一八七四年)旧主片倉邦憲の勧めにより、白石神明社(14)佐藤広見の、長女すみよとの結婚を前提とした養子縁組が整い、十四代佐藤伊織(神職名)、佐藤定介(戸籍上は定助)を名乗ることになった(15)。
この今泉を指導したのが、明治七年に宮城県の第九大区長に官選された平田篤胤没後の門人、山田信胤(16)であった。山田は大教宣布運動に尽力し、明治八年に大教院が廃止され、神道側が神道事務局を設置し、各地に支局を置くと区長を辞し、刈田地区の支局長として、神社行政に当たり、その後権少教正まで昇格した人物である。特に事務支局として同居していた白石神明社への思いは強く、明治五年に「御仮宮」と言うことで社格不認となった事を憂い、寄付と同志を募り、自ら出かけ伊勢神宮のご分霊を奉戴し遷座した。これによって、明治十年十一月白石神明社は村社に格付けされた。この神明社の跡取りとなった今泉は、山田宅に通い指導を受けると共に、多くの古典を読破し神職としての基礎を学んだ。その古典類は現在、白石神明社に山田文庫(17)として収められている。
この山田との関係から、今泉は明治十二年四月上京し神道事務局生徒寮入学(18)へと進んだものと考えられる。そして同十五年九月東京大学文学部付属古典講習科(19)に進学し、在学中に何回か故郷白石へ帰省して、この間、養子先の佐藤すみよと正式に結婚し(20)、明治十七年に長女せん、同十九年に二女なかをもうけた。
しかし、同年東京大学卒業後、東京学士会院編纂委員として嘱託となり、『古事類苑』編輯に従事したことによると共に、もと旗本であった、高橋謗沽Y三女ろくとの出会いもあり、生涯を一地方の神職で終わることを、自他共に許さぬ事情(21)が東京で生じたものと思われ、また故郷白石においても、養父佐藤広見と養母さくとの間に長男磐雄が、今泉の養子縁組後生まれたことも関係してか不明であるが、明治二十二年に故郷白石での今泉の指導者、山田信胤が没し、翌二十三年十月には養父広見が六十一才で亡くなったことを、受けるかのように、同年十二月三日に佐藤家と離縁し、今泉姓に戻り、白石を離れることとなった(22)。
今泉との離縁後、佐藤すみよは、明治二十九年三月、弟磐雄が二十二才で、没したためか、翌三十年頃長女せんに養子として、亘理郡逢隅村安福河伯神社祀官吉田昌俊の二男俊雄(明治十一年五月〜昭和三十四年十二月八十二歳で帰幽)を、十五代神職に迎えた。しかし、せんが明治三十五年二月十五日十九才で亡くなったため、養子俊雄に後妻として、明治三十六年六月八日加藤兵十郎二女とみよを迎えている。その後五男四女をもうけ長男清雄が第十六代神職を、二男正雄が神明社奥宮福岡神明社の宮司を継いでいる。
この佐藤俊雄氏は、十九歳での養子縁組後、明治三十二年五月の白石大火による長町鎮座の神明社の焼失、翌三十三年五月の現在地(白石城二の丸跡)への社地移転と本殿の再建、同三十九年には拝殿の造営を行い、その後、昭和十年十月には現社殿の竣功と、多くの困難を乗り越えてきている。そうして今日の神明社の姿を示現できたのは、神宮奉賛会会長となった先代宮司の今泉の助力(23)と共に、白石地域共同体の人々の、厚い信仰と厚情による、縁約の原理で動く「同年会」組織に見ることが出来ると、俊雄氏の孫十七代宮司佐藤俊彦氏は、書き残している(24)。
第二節 今泉定助と「同年会」
次に、この「同年会」と今泉との関係について、検証を加えて行くとする。
「同年会」についての概要を、佐藤俊彦氏は次のように述べている(25)。
旧白石町内の産土神である白石神明社には男子、数え四十二歳の正月、同年会を結成し、神社に物品を寄進する風習がある。元来四十二歳の厄については関心が高く、この厄祓いのためには少々の出費は惜しまないとの風習があつた。大正初頭の第一次大戦と初期資本主義の好況により奢侈に流れ、盛大な祝宴をおこなう例が多くみられた。そうしたなか大正七年、四十二歳を迎えた人々が、その出費を社会貢献に提供しようと相談し、当時、神明社は白石大火により焼失し、益岡公園の現在地に移転後、日も浅く神社は未整備であり、また公園も拡張中であり、その公園及び神社の入口の旧益岡(白石)城の内堀に石橋をかけることを決定した。この大正七年における同年会の結成、及び活動によって寄進の風習が形作られ次の年に受け継がれ、連綿として同年会は結成された。終戦直後、途切れたかに見えた同年会結成が数年を置いて復活し、既存の同年会と共に社頭を賑わし、神社への寄進以外に時代の潮流に乗り、地方公共団体、社会福祉施設、学校等へも寄付を贈るようになった。
この様な「同年会」と、今泉の直接の関係を示すものとして、残されている物は、昭和八年白石不惑会(明治二十五年生)寄進、御水屋の水槽題字と、昭和十六年明治三十三年生同年会による御神木(伊勢神宮より下賜)の碑題字のみしか見出せなかった。しかし、大正七年に始まる「同年会」と思想的連係を、持ったと考えられる碑文等が多く遺されている。
先ず始めに大正四年晩秋、神明社鳥居横に建てられた「片平観平碑」が挙げられる。この碑文選定を今泉が行なっており、その要旨は、
大堰補修工事は従来からしばしば行なわれ、領主の命令で村々から内雇人足を徴集しているが、このごろ各村は人手不足で難渋し上下の憂いになっている。これを見て情けなく存じ、自ら憤激し自分金をもって御届けの上に切通しの請負をいたし(26)
と白石地域農村救済のため、天保元年から十年かけて、私財を擲って切通し工事を完成した、片平観平の顕彰を行なったものである。この碑文選定を通して、故郷白石地域の人々との地域共同体の一員としての具体的公益の実践方法の共有を持ったものと考えられる。
次に考えられるものとして大正六年十月白石城二の丸跡に建立された「横綱谷風・大砲の碑」がある。この碑においても今泉は碑文撰并書を行っており、碑文の中で、
(郷土の先輩横綱谷風に対し)大砲その徳を慕い其の英霊を祭らんとす是聞き地方有志もまた其の擧措賛し碑を建てもって後毘を伝ふ
とし、横綱大砲の碑文では、
人となり温良郷党を恵愛し又頗る谷風の偉徳を敬慕す古今世を異にすと雖も其の鷹揚鵬撃の状は相同じ、地方の有志相謀り両横綱の雄風を永久に傅へむが為め建碑の擧あるに當り大砲率先敷地二反五畝餘を町公園に寄附して此の擧を翼賛せり今その顛末を記して不朽に傳ふ
と大砲の地方共同体の先人に対する、敬慕と礼節、そして公益の実践を撰文し、横綱大砲を迎えての除幕式と、横綱の碑建立記念大相撲の実施を通じて、白石地域の人々に、広く伝えられたものと考えられる。
その後においても、昭和二年四月十六日神明社鳥居横に建てられた、村社から郷社昇格時の「郷社神明社」名号字からも、神社昇格請願活動に係る今泉と、白石地域の人々の産土神を通じての強い結びつきが窺われる。また昭和十四年十二月三日には白石斎川鎮座田村神社の甲冑堂再建落成式に、西郷従徳、徳富蘇峰、久松潜一らと参列する(田村神社甲冑堂略記による)と共に、昭和十六年白石神明社拝殿に、今泉によって奉納された、有栖川宮幟仁親王以下内閣総理大臣経験者九人を含む四十六人の奉掲額の数々を見ると、今泉の故郷白石に対する愛着の念を感じ取ることが出来る(別表参照)。
そしてその今泉の故郷に対する思いを受ける様に、昭和十七年当時の白石町の町議を経て、「今泉頌徳碑」及び「今泉記念碑」は、建立され除幕式当日、東京から今泉を始め八角中将等、地元からは、朝倉町長以下町の有力者が、多数参列している。
これら大正時代初期からの多くの碑の建立、行事等を通して窺えるのは、今泉が白石地域との交流を深める事によって、皇祖皇宗の遺訓にもとづく公益の実践思想を、白石地域共同体の人々と共鳴し、今泉自身の思想形成が育まれたことではなかろうか。そして今泉との交流を通じて、大正七年スタートの「同年会」の人々に対しても少なからず影響を与え続けたものと思慮される。
この時期の今泉の国民教化、公益の実践思想が、窺われる史料として、今泉の大正六年五月二十七日におこなわれた、京都『寶筺院入佛式講演録』(27)がある。この史料よると、
父にはまのあたり孝養する道はあるけれども祖先には其の道がない。是に於いてか宮殿を造り、月日を定めて、祖先に孝養をつくす。これ祭祀なりされば子孫は現在に於いて祖先を祭り、祖先は幽界に於いて子孫を守る。我が身は祖先肉身の延長にして、民族は始祖を同じくする同胞である。この関係より、小にしては家であり、大にしては國である。此の故に家國一致といひ、又家に盡くすを孝といひ、國に盡くすを忠といふ。忠と孝とは一つにして二つでない。此の故に我が國に於いては、忠孝一本といふ
として次に、
特に川崎(芳太郎)氏は楠公戦死の場所たる神戸の人、さうして小楠公首塚の寺院(寶筺院)を再興せられ、また此の寺院を永久に維持せんがために、楠正成一巻書を原本のままに翻刻して、之を同感の士に配布し、これに依って得る所の浄財は、悉く寺院維持の資に宛てられるといふ、世の華族もしくは富豪の人々にして、徒に自己酒食の為に萬金を擲つて得々たるものは、宜しく反省すべきである。又楠正成一巻書は川崎氏の美挙を賛せられて、京阪神の三都市に於て、一萬部位は無論引受けられんことを希望致します。
と述べている。この今泉の講演主旨は、家に尽くすを孝であり、国に尽くすを忠といい、片平観平の私財を擲っての公共事業、大砲の公園の寄付そしてこの川崎氏による宝筺院再興等の地域共同体に対する公益は教育勅語で言う「進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ」の実践思想であり、それは当時の地方改良運動(28)の様に、上からの官僚による国家施策によるものではない、地域共同体の人々による自らの草の根運動であり、わが国に於いては忠孝の間に地域共同体に対する公益があるとする、この今泉の思想が白石神明社を通じて、直接・間接的に白石地域共同体の人々の「同年会」設立と言う実践思想が今泉と相互に連動して形成されたと思慮される。
第二章 今泉定助の皇道思想
第一節 皇祖皇宗の遺訓としての皇道思想
次に「同年会」との連動によって、形成された今泉の公益の実践としての皇道思想の基盤となった、皇室に係る思想形成過程の検証を加えて行きたい。
今泉の思想面が、窺える著作のスタートは、明治二十三年十月に渙発された、教育勅語に対して、翌二十四年十一月に普及舎から刊行された『教育勅語衍義』、そして続いて同二十五年十月に、吉川半七印刷・発行、深井鑑一郎氏と共編の『修身科用教育勅語例話』である。もとより教育勅語は、明治天皇の国民道徳に対する思いを輔弼の臣僚が、一宗一派一学統に偏ることなく国民的教として起草したものであり、国民各層は、国民精神の亀鑑として熱烈に歓迎し、全国の神職もまた、神社護持の理念、自らの社会活動の拠り所としてひとしく仰いで行くこととなったと言う(29)。その教育勅語の初期の解説書を著し、国民に広く影響を与える一翼を担ったのが、これら今泉による著作である(30)。そこでこの著作及び編集の中での、公益性に係る思想について、検証して行くとする。まず『教育勅語衍義』の前文を見てみると、
只々四千万の人々の中にて、一人にても、二人にても、此衍義によりて、かかるありがたき御教の意味を知るものあらんには、臣が、天皇陛下につくし奉らんとする志も空からずして、臣の幸これにすぐるものやあるべき。
と御教の教化者の立場が窺える。そして"進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ"の段においては、
公益を広むとは、一人一個の利益を計らずして、広く一国全体の利益を計ることを云ひ、世務を開くとは、目前些細の事を彼是するにあらずして、広く世の中の利益となるべき事業を起すことを云ふなり。
として、世のため人のためになる事を行なうことが、公益を広め世務を開く手段と、説明を施している(31)。
次に『修身科用教育勅語例話』(32)を見てみると、歴朝の聖徳、国体、忠、孝、兄弟、夫婦、朋友、恭、倹、博愛、修学習業、公益世務、国憲国法、義勇と教育勅語の徳目に沿って十四項目ごとに、格言、故事を例話として集めたものであり、公益世務の項目では、三十三例を挙げている。その中で今泉のその後の思想が窺える何例かを見てみると、
下総古河城主土井利勝による江戸で拾い集めた桃の種の生育による領民に対する食料・燃料の確保、旅人の安全対策としての領内街道の松並木・一里塚の整備等を挙げ、また陸奥国の郷士、内藤平左衛門によって町内はもとより近郊の村々の、子を育てられない貧しい人毎に金一両を与えた慈善事業の実施例を示し、福島県下の決して豊かでない老人熊坂宗兵衛と盲人片平伊達一が衆に率先して往来の便を図る橋の建設費に宗兵衛は金百円、伊達一は金五十円を拠出しこの擧を成功させた
事例等を挙げている。
今泉としてこれらの刊行時期は、家庭内にあっては、明治二十三年十二月三日に佐藤家と離縁し、翌二十四年三月二日に婚姻関係を続けてきた高橋ろくを入籍し、また対外的にも、同年九月に國學院講師に加え、共立中学校長を拝命し、気分を一新した転換点での著作である。今泉は東大古典講習科卒の新風の合理主義者として、これ以後二十年に亘って古典の出版の注釈編集の流行の第一人者として歩みだした時期でもある(33)。そしてそれは、今泉の神道観の特色の一つを、皇祖皇宗の遺訓とし、国家の礼典・朝廷の作法として国民に示され、書物としては、教育勅語として「人生百般の指導原理」即ち日常生活の規範として、教示されていること(34)とする神道観の第一歩が、教育勅語を通じて形作られた時期とも言えよう。
しかし一方の国家の礼典・朝廷の作法として国民に示される事に関しての今泉の著作活動は、大正期を待たねばならない。それは大正四年八月『御大礼図譜』(35)を池辺義象氏と共編で出版に始まり、その「緒言」の中で大嘗祭について、
我が道徳の根元たる忠義一本の大儀、實にこゝに存す。國民たるもの深く思をこゝに致して、東洋大帝國たる我が皇室の悠久にして、しかも将来大に益々発展すべき運命を考へざるべからず(中略)この千載一隅の時機に際して、一般國民にこの御大禮の意義の存する處を知らしめ、大に奮起するところあらしめむと志し
と編纂意図を述べている。これに続いて、大正五年十月二十七日の日付が記されてる講演原稿「立太子の御儀につきて」で、立太子に関する変遷沿革を示し、同五年十二月の『皇典講究所雑誌』に、「明治天皇の御即位」を、掲載しその中で、日本は君臣悉く公共的であり、御即位大嘗祭は陛下御一人の為にあらずして国民の為、大嘗祭は天下泰平五穀豊穣を祈ると論じている(36)。この様に大正初期皇室の重要な祭祀の詳細な考証を通じて、今泉の地域共同体指導としての皇道思想の第一段階は、形作られたと考えられる。
一方、私生活においても、今泉は佐藤家と離縁となる理由の一つとなる、高橋ろくとの婚姻関係等の女性問題のため、故郷白石に帰れず墓参りも出来ぬ情況(37)に至っており、このため今泉は筋を通して、大正元年十一月四日前妻佐藤すみよが五一才で亡くなるまで、帰郷をしなかったと思われ、これによっても白石における地域共同体との係わりが、大正期以降となる原因と考えられる。
第二節 皇道思想から見た川面神学
今泉が禊の修業を通して、川面凡児と出会い、東大風の新合理主義を棄て、決然として神道の信仰に入った背景を、地域共同体の指導理念の構築と言う観点を、考慮に入れて検討を加えて行く。今泉が川面神学に傾倒した、第一の理由は神宮奉斎会会長の就任と考えられる。奉斎会の特長ある立場として宗教上の布教はしないが、国体についての、教化活動は行うとする中にあって、『東京大神宮沿革史』によると、篠田時化雄会長から会長のバトンを、新進の今泉が渡された大正十年五月は、深刻な不景気により産業は振はず、労働争議の頻発、思想界の混沌たる姿の露呈の中、神宮奉斎会は神宮大麻暦頒布権喪失、神宮神部支署の整理、分離、廃止による家賃収入の激減等により、財政は逼迫していた。しかし逆に奉斎会地方本部の神部支署との決別は、地方民の崇敬を取戻し、本部員に奉斎会の再出発が、新しい信念を醸成させた(38)。この状況下新しい神道精神の指導理念を求めて、奉斎会篠田前会長と共に同年七月九日夜、内務大臣床次竹二郎による内相官邸における、川面の講演会を聴いている。この時の演題は、「宇宙根本原理と日本国民性」と言うもので、三時間にわたり満場酔えるが如く感に打たれたと、『川面凡児先生傳』(39)に記されている。この演題のベースになったと思われる川面の著書に、『社會組織の根本原理』が挙げられる。これは前年の大正九年十二月二十五日稜威會出版部から発行されたもので、「引」と書かれた序文には、
今日の社会主義おこりし時代の切迫と同人の熱誠によって一切の訪客を謝絶し十月二日よりとある岩屋戸に立て篭もり同月二十八日迄に一気呵成して本編を終えた。
とするもので、同人の葦津耕次郎氏の関係も述べられている。此の著書と今泉に関して、息子である葦津珍彦氏が、「今泉先生を語る」(40)の中で昭和四年頃の話として述べている。それは珍彦氏が駕籠町のお宅に拝参すると今泉は
「君は、川面翁の社会組織の根本原理を読んだろうが、どう思ふか」質され、珍彦氏は「あの本は駄目です。川面先生は、社会主義の諸流派を列記して批判されているが、先生の社会主義理解そのものに誤読、誤認が著しい。(後略)」
これに対し今泉は、
「私は横文字の書を読まず、洋学をやらなかったし、詳しくは知らぬが、君の云ふのももっともだろう、とも思ふよ。川面さんの論にも、そのやうな欠陥はあり得ることだし、それは君のやうな若い後学の者が勉強して修正し、補強して行かねばならないことだ。(中略)ただ大切なのは、この著述をした川面さんや、それを激励した君のおやぢが、御国のためを思ふた志の深さ、世を憂へた心情をしっかりと読みとることだ。(後略)」
と川面神学に対する、今泉の姿勢が語られている。話は戻るがこの講演後、大正十年十二月三日より一週間今泉は、冬の禊に全国の宮司、神部署、及び社司の人々と参加し川面の指導を受けている。その折に詠まれた歌が、
大正十年十二月同志とともに江の島へみそぎして
ももたらず八十まがつひを禊してすがすがしくもおぼえぬるかな 定介
である(41)。その後大正十二年今泉は、大寒みそぎの中日に川面を自ら訪ね、内務省で開催中の全国神職講習会の講演依頼を行なっていて(42)川面との関係の深まりを感じさせる。この様な今泉と川面神学上の最初の接点として考えられるものとして明治三十九年十一月に稜威会本部から出版された「稜威會宣言」(43)である。この中で、
全神教としての大日本世界教は、在来の宗教にあらず。特に神官、僧侶、牧師といふがごとき階級なし。何人といへども、全神教に禊し、大日本世界教に祓ひして、その信仰、解釈、実行を個人に顕彰し、家庭に顕彰し、国家に顕彰し、世界宇宙に顕彰するものは、ひとしくこれ同胞同人なり。その同胞同人の集合体を名づけて稜威会と称す。稜威会員は君に対すれば臣なり、民なり。父母に対すれば子なり、孫なり。ないし、夫婦、兄弟、姉妹、師友に対すれば、夫婦、兄弟、姉妹、師友なり。人類に対しては同胞なり。万有に対しては大同胞なり。神に対しては神子、天孫なり。特に神官、僧侶、牧師といふものあることなし。宗教とし云へば、人人すべて宗教者たり。稜威会員は、特に宗教家たるを期せず。ただこれ万有たるを期す、人類たるを期す。
とし、教派神道=今泉言うところの宗教神道と、一線を画くしている神社神道と、同様な立場にある点からの接近と考える。そして「神より出ずる者は神に還るを知れ。」した、神我一体の立場による直霊の顕示が、今泉をして禊に踏み込ませたと考える。
川面は、昭和四年二月二十三日帰幽、同年四月七日帝國ホテルに於ける追慕会で、今泉は次の様な追慕談を行なっている(44)。
私共は全く四大人のやられました国学の流れを汲んで参った一人でございます。所が従来の国学者と申しますものは、全く考証学でありまして、今日の国学を伝ふる者も考証一方に流れまして、実行と云ふことは更にないのであります。私も其の一人でありますが、考証学以外に学問があると云ふことを申しましたならば、今の学者は皆驚くのでありまして(中略)所が申す迄もなく神道の行事は如何に考えましても考証では出来ない、所謂主観的内観的、主観の主観、極めて精神の仕事でありますから、どう考えましても是は考証学では出来ないのであります。従来の祭は考証一点張でやって居ますから形式に流れることは免れない。何の為に玉串を奉呈するのであるか、何の為に御拜をするのであるか、何の為に拍手するのであるか知らざる者が多いのであります。実際文献にあらずして行事でなければならない、行事から入った人でなければ祭事は出来ない筈であります。是は明々白々たる事実でありますのに、是までの学者は只考証を以て祭をやつて居りますから、其の祭は形式に流れたのは当然の結果であると思ふ。又学者の役に立たぬことは信仰がなかつた。信仰があつてこそ如何なる学問も活用をするのでありますが、信仰のない学者ほど詰まらぬものはないと思ふのであります。私共が斯かる生意気なことを申上げることの出来るやうになりましたのは、全く川面先生の賜であると云はなければならぬのであります。私共も若い時から全く国学と云ふものだけをやつて来たのでありまして川面先生と御交際申す機会がなかつたら、考証学を以て立つ一人であつたに相違なかつたのであります。幸ひに此の十四五年川面先生に会った賜として、斯んな事を云つたつて何の役に立つものでないと云ふことを深く慙愧して、今ではさう云ふ精神を以て本を読むのであります。
この今泉の川面追慕談は、今泉が信仰学問の由来するところを、自ら語られた初期ものとして注目すべきものと思はれる。それは信仰に基づく地域共同体を指導する国学者としての、自己の発見であると思われる。その後の、昭和十四年「川面凡児先生十周年記念会」の提唱者であり会長となった今泉は、趣意書パンフレット(45)で、より具体的談話筆録を残しており、その中で大正六年に始めて、川面から禊の指導を受けたことを述べており、四年の追慕談と符合し、大正六年の禊の行が今泉の行動する皇道思想のスタートと考える。
第三節 地域共同体指導原理と皇道思想
次に、昭和十四年二月二十三日東京九段軍人会館に於ける、「川面先生十周年記念会」(記念会会長として今泉は会を主催すると共に講演の実施している。)、今泉講演「川面凡児先生を語る」を、雑誌『講演の友』(46)掲載史料で検証して行きたい。
この講演で今泉は、国学の伝統の基に成長し、川面の禊の行によって完成された皇道思想が、平易な用語で明瞭に語られている。
今泉は先ず始めに川面の難解な理論の通訳者として自分の立場を説明している。そして元来自分は本居宣長・平田篤胤を代表する国学者の流れをくみ、国家を開いた祖神に対する観念、国家の中心であるところの天皇に対し奉る観念、また国家に対する観念、この三つの観念を確固として引き継ぐ、本居、平田を代表とする国学の大家達に、感謝の意を示している。
次に川面翁の日本の古典に対する態度を、
古事記に書いてあることは大抵日本書紀の方では省いている。また日本書紀にあることは古事記の方では省いてあるとし、変わったところがあるように見えても同じことを伝えている。
と、例を挙げ説明している。それは、
天瓊矛のところや、御頸玉のところでは「この何々を見ること猶吾を見るが如くすべし」という言葉はないが、他は省く例とし宇宙創造、地球創造の精神を併せ天照大神に授けたもので三種の神器も又ここから出発しなければ解けぬ
と、川面の通訳者として説明を加えている。
そして川面の一番力強く主張したこととして「三大神勅(天壌無窮の神勅、斎鏡斎穂の神勅、~籬磐境の神勅)を以て国体の基礎である」と言ったことであり、また川面の発見として「霊魂観」があり、これによって、本居、平田も判らなかった、「八神殿の鍵を開かれた」としている。これは、「第一に行事、第二には言葉、真髄に触れたものの研究に依って初めて解ける」としている。
そして今泉は今の考証学の足りないところとして、
天照大神のみを神と書き以下二柱を命、尊と古事記の編者は書き分け、また日本紀、古事記の神名の文字が違うのも記紀の著者が杜撰に書いているわけでなく意味があるにもかかわらず論じようとしない点を考証学者の不十分な所とし、翁は文献に依るだけでなく、色んな方面から研究調査している。
としている。
しかし今泉も川面の学説に対しは、
三十年前までは、矢張りかく申す私も疑った。だんだん先生の書かれたものを見、また先生と度々会いまして、いろいろ話合って見ると洵に結構
とし、本当の神道古典の精神を国学者の方々に、我を捨てて研究して頂きたいとしている。
この事から、今泉と川面の出会いは、大正三年の古典攻究会創立(47)当時に始まるものと考えられる。
次に三種の神器の解釈として、なぜ二種だけ平生伊勢と熱田に置き、御玉だけ御離しにならないかを、川面は「霊魂観」から説いているとし「霊魂は、和魂、荒魂、奇魂、幸魂、古典はこの四つしかない。ところが先生はその外に眞魂を見ている。」とし「奇魂は智である。幸魂と云ふことは情である。眞魂といふことは意思である。」とし「陛下として智に関する政治・軍事は臣下にお任せになって然るべきこと、情のこと、救済事業・教化事業は人にお任せになって然るべきだ、こう解いている。」そして「眞魂意思は決して御許しになってはならぬ。」としている。
次に川面は「凡てのことが体験でなければいかぬ。自分の身体で試験をして、その次には体得である。その次には必ず体現、実行に現れる。祖神はそれを教えている。」と説明しているとしている。今泉は伊邪那岐神の禊の條を例にとり
これを歴史の事実として見るばかりでなく、自ら禊をやって、そうして自分が小伊邪那岐神にならなければならぬ
と実践性を教えているとしている。
そして最後に
日本の天皇は必ず将来世界統一の天皇におなりにならねばならない。その意味に於ける天壌無窮の国体である。その意味における皇統一系のお方でなければならぬと云ふことを、本当にこれを世界に知らしめますならば、今日の事変後の東洋を救ふことは固より、世界の攪乱を救ふものはこの大日本帝国の開闢以来の大精神これであります。
としている。
この講演からわかるように、教育勅語による「人生百般の指導原理」に始まった今泉の皇道思想は大正初期の皇室祭祀の考証を経て、川面神学の古典攻究を通じて検証し、大正六年の禊の行以降自分の身体で試験して、自分の身体で会得して、そうして実行に現るとした、全世界に広がる地域共同体に対する指導原理としてあの白石神明社に残された「世界皇化」の絶筆に至っている。このことからも今泉にとって白石地域に於ける「同年会」設立活動は、実践思想としての皇道思想形成の原点と考えられる。
おわりに ―残された課題―
白石地域の人々による「同年会」設立は、現在まで連綿として受け継がれている。このことは、今泉の神道思想の基本は白石地域の共同体で培われ育まれたものとも考えられる。そしてこの地域共同体としての白石を含め奥州地域は、奥羽越列藩として戊辰戦争に敗れ、朝敵として明治の世を生きなければならなかった歴史を有している。
特に東北地域は「白河以北一山百文」とさげすまれたと言う。
これに対し白石においては、明治二年には旧仙台藩家老片倉家家中千名以上が政府に北海道開拓志願名簿を提出し、その後多くの家中が入植した。これは全旧家中が傑山寺に集まり会議を開き「旧主と一体となり有事の際は国防にあたり、平時は国家の生産をふやそうという論議が大勢を占め(48)」たことによるもので、朝敵の汚名脱却の最初の共同体としての動きの一つとして捉えられる。
その後大正六年九月八日、政友会総裁原敬は故郷盛岡で「南部藩戊辰戦争殉難者五十年祭」を行い祭主として、祭文の中で、戊辰戦争は政見の異同のみとし南部藩は、朝敵でも賊軍でもないと言い切っている。そしてこれに連動する様に仙台市においても、翌七年十月二十七日に列藩同盟の仙台藩指導者玉虫の「玉虫左太夫先生五十年祭」を執行し名誉回復を図っている(49)。
今泉は北海道入植決議に始まり、この「五十年祭」に至る「朝敵としての地域共同体」からの決別の動きを転機の一つとして、大正六年以降行動する神道人として変貌していったのではないか。今後この視点からも今泉定助を検証していきたい。
【註】
(1)この事に関し白石神明社十七代佐藤俊彦宮司は、次のように述べている。「先年、当社宮司が姪の結婚式のため、今泉の本拠であった東京大神宮へ参拝の際、職員達へ尋ねたが知る人はいず。当社奥の宮なる福岡神明社宮司佐藤正雄=小生の叔父=が伊勢神宮の大麻頒布式に出席し、今泉の名を口に出しても、全国から集まったレベル以上と思われる神職達は無反応だった。」
佐藤俊彦『白石における産土信仰(1)―同年会を中心としてー』(白石神明社社務所 昭和五五年)四七頁。
(著者略歴)
昭和一二年三月一日白石市生れ 国学院大学文学部文学科卒 宮城県白石高校等国語科の教員歴任後、第一七代神明社宮司 平成一九年三月二五日没。
(2)中西旭「神道世界観の展望―川面、筧、今泉を中心とする群像」『明治維新 神道百年史 第五巻』(神道文化会 昭和四三年)四三六頁。
(3)阪本是丸「大正期の神社界と今泉定助」『今泉定助先生五十年祭記念誌 源泉への回帰』(新生創販 平成六年)八二頁。
(4)『国史大辞典』には、次の八項目に今泉の記載がなされている。それは国学者としての面と、右翼としてのそれである。九巻・「田中頼庸」の項目では、「(神宮奉斎会)会長今泉定助との因縁が深い」(阪本健一)としており、五巻・「故実叢書」の項目には、出版経緯について、『本朝軍器考』の今泉定介の緒言をのせ、また吉川弘文館の賛同を得て等具体的記載がなされている。(橋本義彦)、「国書刊行会」の項目には、「今泉定介(定助)市島謙吉の両名が相談して組織した編集団体」で、「編輯所を京橋の吉川弘文館の倉庫の二階に置いた」とし、「設立の翌三十九年、今泉が一身上の都合で刊行会を離れ」(益田崇)等詳しい記述がなされている。四巻・「北野誌」の項目には、編纂にあずかった一人として記され、「今日においてもこれにまさるものは存しない」(西田長男)としている。七巻・「神宮奉斎会」の項目では、歴代責任者として列記されている。(阪本健一)二巻・「右翼運動」の項目に、「菱沼五郎は団琢磨を暗殺する日の朝まで、日本主義者の今泉定助が主宰する日本皇政会の幹部の宅に生活していた」とし、巻末付図<右翼系統図>においては、「日本皇政会」(五年)、「興亜維新同盟」(一五年)の二ヶ所に、代表者として記載されている。(高橋正衛)五巻・「血盟団事件」の項目では、「伊藤広は今泉定助の門下生で菱沼・黒沢を一時期かくまっただけであり、事件に関係はない」(高橋正衛)としているが、逆に井上日召と今泉との関係(今泉邸滞在・裁判における弁護人)の記載はない。
(5)『白石市史T通史編』(白石市発行 昭和五十四年三月二十日)六二九頁。
(6)この記念碑は昭和十七年、今泉の郷里宮城県白石市(当時は白石町)の町議を経て建立されたもので、同時にゆかりの白石神明社境内に「頌徳碑」が、そして誕生地たる桜小路に「今泉記念碑」が設置され、九月十五日に除幕式が行われている。「頌徳碑」は米内光政大将筆の「国體明徴」の題字、小磯国昭大将自筆の頌徳文が彫られ、現在も神明社境内に昔ながらに立っている。記念碑は長方形の石の一面に松井石根大将筆の「皇道発揚」の四文字、その一方の側面に白石町の長老菅野円蔵の筆で「今泉定助先生誕生之地」、もう一つの側面は今泉自筆の和歌「あれはてし千代のふる道ふみわけて しるべするこそ我がつとめなれ」、残りの一面に菅野の「今泉定助先生誕生の地といふ碑文をかき終りし時に 君が名は千歳にはなと匂ふらむさくら小路になごりとどめて」が記されていて、現在は白石城址公園と神明社が境を接する路傍に建っている。なお除幕式当日は東京より今泉を始め八角中将等、地元からは、朝倉町長以下町の有力者が多数参列しているが、『白石市史T通史編』には一行たりとも記載されていない。(参考)高橋昊「今泉定助先生正伝研究 今泉研究所―その国体論と神道思想上の地位―」『今泉定助先生研究全集一』(日本大学今泉研究所 昭和四四年)二八二頁、二八三頁。
(7)佐藤俊彦『白石城本丸朝話』(仙南新聞社出版部 平成元年十二月一日)八九頁。
(8)今泉研究所の設立経緯については、阪本是丸氏が次のように述べている。
日本大学に今泉定助を記念する研究所が設置されたのは、今泉が昭和八年(一九三三)十月以来日本大学で、「皇道の本義」を開講したことに遠因し、十二年六月二十日、この講座をもとに新たに日本大学内に皇道研究所が開設されたという由縁からである(十四年二月二十日、皇道学院と改称)。皇道学院は終戦によって廃止されたが、同学院関係者らの尽力によって昭和四十一年、日本大学本部内に今泉研究所が設置され、(中略)四十四年九月から翌四十五年三月にかけて『今泉定助研究全集』全三巻が刊行された。この刊行を契機として、同研究所は夜間一年制の「日本精神講座」を開設し、葦津や高橋昊氏、岡田剛道氏、石田圭介氏、小野正康氏、永淵一郎氏、朝倉直文氏、阪本健一などが講師となってそれぞれの科目を担当した。以後、十数年を経て同研究所はようやく念願の『紀要』を発刊することができたのであるが、やがて数年後には同研究所は活動中断のやむなきに至り、『紀要』は第一集のみで終わらざるをえない状況となったのである。
阪本是丸「葦津珍彦と国家神道―『葦津珍彦選集(一)』神道・政教論解題―」『近世・近代神道論考』(弘文堂 平成十九年八月三十一日)四七四〜四七六頁。
(9)『同全集第一巻』に収められた論題及び執筆者 伝記篇「今泉先生を語るーその思想と人間―」(葦津珍彦)「今泉定助先生正伝研究―その国体論と神道思想史上の地位―」(高橋昊)「今泉定助大人に縁りの神道人」(阪本健一)「年譜・著者目録・日録抄」(今泉研究所編)研究篇「帝王学の壮観―北畠親房卿と今泉定助先生―」(幡掛正浩)「今泉定助翁による皇道思想の展開―とくに川面教學との関係においてー」(中西旭)「今泉定助翁の神道観」(安津素彦)「今泉定助先生の世界皇化論」(葦津珍彦)「今泉学の神道皇道論と日本学の原理体系」(小野正康)。
『同全集第二巻』に収められた、今泉の著作・年代「皇道論叢」(昭和十〜十七年)「皇道論叢補遺」(昭和十六〜十九年)。
『同全集第三巻』に収められた、今泉の著作・年代「教育勅語衍義」(明治二四年)「立太子の御儀につきて」(大正五年)「明治天皇の御即位」(大正五年)「神祇特別官衙名称論」(大正七年)「拡充さるべき神道の意義」(大正十年)「震災復興についての建白書」(大正十二年)「祭祀を重んずべし」(大正十三年)「清浦内閣に呈出したる思想上に関する鄙見」(大正十三年)「国体観念」(大正十三年)「神社非宗教論」(大正十五年)「大嘗祭の精神」(昭和三年)「国体の上より観たる政党政治の弊害」(昭和十年前後)「皇道の真髄」(昭和九年)「国体に対する疑問に答ふ」(昭和九年)「血盟団事件特別弁護速記」(昭和九年)「皇道精神を以て思想界を浄化せよ」(昭和十年)「国体原理」(昭和九年)「顕幽論」(昭和十一年)「古典研究の方法について」(昭和十一年)「国運発展の教育」(昭和十二年)「大祓講義」(昭和十三年)「川面凡児先生の業蹟について」(昭和十四年)「神道の歴史と将来」(昭和十七年)「世界皇化の聖業」(昭和七年)「自詠寸書」(昭和十一・十八年)。
(10)『紀要』「発刊のことば」の中で、日本大学理事長・今泉研究所所長柴田勝治氏が、研究所設立目的について、「今泉定助の伝記と著作集の刊行及び皇道発揚に関する研究と教育事業をなすこと」と述べている。以下収められている論題・執筆者
〔特別寄稿〕「神道学史上の今泉先生」(葦津珍彦)〔研究論文〕「物と心の根拠としての霊魂」(中西旭)「大和魂の行証」(高橋昊)「昭和初期日本精神論の特色」(佐々木聖使)「神皇正統記と皇位継承法」(石田圭介)「幕末期に於ける西郷南洲の人と思想」(岡田鋼道)「鹿子木員信の倫理観」(長江弘晃)「江戸幕府による択捉島の開発と経営」(柏村哲博)「中国における国体意識序論」(高木桂蔵)最後に〔所報〕として「昭和五十七年度今泉研究所活動報告」の記載がなされている。
(11)『記念誌』に収められた論題及び執筆者
"講義"「今泉定助先生五十年祭記念誌に寄せて」(葦津大成)「天皇の神聖と日本国の統治」(葦津珍彦)「禊の本義」(高橋昊)「明治維新とアジア主義」(岡田剛道)
"論説"「「象徴」と「表彰」」(石田圭介)「大正期の神社界と今泉定助」(阪本是丸)「新世紀の道標たるべき御遺書」(中西旭)「中心:回帰と派生」(佐々木聖史)「教員時代の今泉定助先生」(谷口次男)「今泉定助先生の歌謡論」(中澤伸弘)「財団法人皇道社と日本大学皇道学院」(柏村哲博)
参考資料「日本大学皇道学院」
関係新聞記事(編集委員編)
"回想"「日本大学皇道研究所と皇道学院の開院式」(栂坂清松)「日本精神講座開講事情」(石川多門)「今泉思想と戦後の苦悶」(佐藤正弘)「大和心は世界平和の核」(野原満夫)「ゆにはのいなほ」(服部弘)「禊行のこと」(伊藤心壹)「我ガ小サキヲ恥ズ」(島田隆之)「静岡で新しい種を蒔いてます」(高木桂藏)。
(12)今泉による国家官僚神道批判については、前掲、葦津珍彦「神道学史上の今泉定助先生」『日本大学今泉研究所紀要第一集』。
今泉と朝鮮神宮祭神論争については、赤澤史朗「日本ファシズムと神社」『近代日本の思想動員と宗教統制』(校倉書房 一九八五年)二〇五〜二〇九頁、及び菅浩二「「朝鮮神宮御祭神論争」の構造―神社の<土着性>とモダニズムの視点からー」『日本統治下の海外神社―朝鮮神宮・台湾神社と祭神―』(弘文堂 平成十六年)。
(13)前掲 阪本是丸「大正期の神社界と今泉定助」八二頁。
(14)刈田郡地区の神社等は、『安永風土記』安永六年刈田郡内神社名によると、神主・社人は三家五社のみで、残り二百三十三社は主に真言系の寺院か、修験の本山派によって維持されていた。その数少ない神主が、佐藤家で佐藤甚太夫によって、白石本郷の神明御仮宮と、後に福岡神明社と呼ばれる長袋村の神明社(明治五年三月村社)及び鎮守神明社(明治四十一年十一月二十七日神明社合祀)の神明社三社は管理されていた。
佐藤俊彦『白石における産土信仰(2)―刈田地方・神道の明治維新』(白石神明社社務所 昭和五九年一一月三日発行)二〜二七・四二・四九頁及び前掲、『白石市史T通史編』三三三頁、参照。
(15)前掲 高橋昊「今泉定助先生正伝研究 今泉研究所―その国体論と神道思想上の地位―」『今泉定助先生研究全集一』一〇三頁、一一一頁。
(16)山田信胤に関しては、前掲 佐藤俊彦『白石における産土信仰(2)―刈田地方・神道の明治維新』三五〜三七頁。
(17)白石神明社の境内にある「郷土館」に保管されており、『古史傳全集』平田篤胤『祝詞考』賀茂真淵『大日本史全巻』等五百冊にのぼるもので、以前台帳を地元有志の方が作成されたとのことだが現在不明であった。なお館内には、今泉の色紙・扁額・掛軸が展示されていて、かの今泉による絶筆「世界皇化」の掛軸もあり、今泉と神明社との深い結びつきを感じる。
(18)神道事務局生徒寮時代の今泉については、丸山善彦『丸山正彦傳』(丸山喜彦大正四年五月)三〇〜三三頁、参照。
(19)東京大学文学部付属古典講習科については、藤田大誠「明治国学と高等教育機関に関する基礎的考察―東京大学文学部付属古典講習科の設置過程―」『神道史研究』第五十二巻第一號平成十六年六月一日発行及び「明治国家形成と近代的国学構想―古典講習科の展開・終焉と國学院の設立」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第40号平成十六年十二月明治聖徳記念学会編を参照。
(20)今泉と白石神明社の関係は、別添家系図「今泉定助(定介)に係る白石神明社宮司家系図」参照。
(21)前掲 高橋昊「今泉定助先生正伝研究 今泉研究所―その国体論と神道思想上の地位―」一五二頁、一五三頁。
(22)今泉と神明社との経緯については、別添年表「今泉定助・白石神明社関係年表」参照。
(23)前掲 高橋昊「今泉定助先生正伝研究 今泉研究所―その国体論と神道思想上の地位―」一五三頁には、「この佐藤俊雄氏と今泉先生との間には、頻繁に文通があり、数十通の今泉書簡が同家に保管されていたのを今泉研究所に提供された。」また「現宮司清雄氏は、佐藤俊雄のやはり養嗣子として入った方であるが、神職として立たれるについて、先生は自分の孫の気持で面倒を見たようである。」としている。なお清雄氏は養嗣子ではなく、本論の中に有る様に俊雄氏の長男である。
(24)前掲 佐藤俊彦「本書を記すにあたって」『白石における産土信仰(1)―同年会を中心としてー』。
(25)前掲 佐藤俊彦「概説、発祥、現状」『白石における産土信仰(1)―同年会を中心としてー』。
(26)前掲 『白石市史T通史編』三五七・三五八頁。
(27)今泉定介「國體の演リ」『小楠公菩提寺 入佛式講演集』大正六年五月廿七日。
(28)地方改良運動については、藤本頼生「内務官僚井上友一の神社観―地方改良運動と神社中心説をめぐってー」『神社本廳教學研究所紀要第十二号』(神社本庁教学研究所 平成十九年三月二十六日発行)参照。
(29)神社本庁研修所編集『わかりやすい神道の歴史』(神社新報社 平成一七年九月)二一七頁。
(30)この『教育勅語衍義』について高橋昊氏は、「明治二十三年十月に教育勅語が渙発されて国民に大反響を呼び起こしたが、翌二十四年内に逸ち早く衍義書の類の刊行されたものは、那珂通世・秋山四郎共著の『教育勅語衍義』、生田目経徳の『聖訓述義』、井上哲次郎の『勅語衍義』等、数種を数えるに過ぎない。今泉の『衍義』は、(中略)児童にも理解し得るよう編纂されたもの」と『今泉定助先生研究全集三』の「解題」二頁、(日本大学今泉研究所 昭和四五年)で述べている。
(31)前掲 今泉定介「教育勅語衍義」五〇・六二頁、参考として「解題」一〜二頁共に『今泉定助先生研究全集三』。
(32)今泉定介・深井監一郎共編『修身科用教育勅語例話』(吉川半七 明治二五年一〇月)三六九〜四〇五頁。
(33)葦津珍彦『一~道人の生涯―高山昇先生を回想して』(東伏見稲荷神社社務所平成四年)六六頁。
(34)前掲 安津素彦「今泉定助翁の~道観」『今泉定助先生研究全集一』五七四・五七五頁。
(35)池辺義象・今泉定介共編「緒言」『御大礼図譜』(博文館 大正四年八月四日)四・五頁。
(36)前掲 今泉定介「立太子の御儀につきて」「明治天皇の御即位」『今泉定助先生研究全集三』七一〜八八頁。
(37)この間の事情に関して第十六代佐藤清雄宮司は、『今泉定助研究全集一』「今泉定助先生正伝研究」一五二・一五三頁に直接記載したメモを残している。それによると、正式に佐藤家と離縁となる前に、その後正妻となる高橋ろくとの婚姻関係及び出産に対し「白石長袋人、忘恩子、犬畜生として悪罵し為めに御里に帰られず墓参りも出来ぬ」状況に今泉が至っていたことを示している。
なお、清雄氏は國學院大學を卒業し白石女子高校等で教師を務めた後、戦後宮司を継いでいる。今泉とは國大在学時代面識が出来たと言われている。
(38)『東京大神宮沿革史』(東京大神宮 昭和三十五年九月)二〇六〜二〇八頁。
(39)金谷眞『川面凡児先生傳』(みそぎ雑誌社昭和四年十一月)二八二・二八三頁。
(40)前掲 葦津珍彦「先生を語るーその思想と人間」『今泉定助先生研究全集一』九三〜九五。
(41)前掲 金谷眞『川面凡児先生傳』二八七頁、及び前掲 高橋昊「今泉定助先生正伝研究 今泉研究所―その国体論と神道思想上の地位―」二一八〜二二〇頁。
(42)前掲 金谷眞『川面凡児先生傳』三〇二〜三〇三頁。
(43)川面凡児「社団法人稜威會宣言」『全~教趣大日本世界教教典』(社団法人稜威会本部 明治四十四年初版、平成六年修正三十版)一四三〜一四五頁。
(44)今泉定介『川面先生追慕録』(稜威會雑誌部 昭和四年四月十五日発行)一五一〜一六一頁。
(45)前掲 今泉定助「川面凡児先生の業績について」六〇三〜六〇五頁、葦津珍彦氏が「解題」『今泉定助先生研究全集三』二八〜二九頁で大正六年の禊記載を誤聞か誤植の疑いもありとしている。
(46)今泉定助「川面凡児先生を語る」『講演の友』第百五十三号(講演の友社 昭和十四年五月十五日)二二〜三八頁。
(47)小島倭夫「川面凡児先生小伝」『川面凡児先生五十年祭記念會報』(社団法人稜威会 昭和五十四年十一月)四五頁。
(48)前掲 『白石市史T通史編』三九二、三九三頁。
(49)星亮一『奥羽越列藩同盟』中公新書(中央公論新社 一九九五年)まえがき・二一一・二一二頁。
今泉定助・白石神明社関係年表
文久 三年 二月九日、仙台藩片倉家今泉伝吉三男して現白石市桜小路に生れる。
明治 二年 旧仙台藩家老片倉家家中北海道入植決議。
明治 三年 今泉家、白石にて帰農。白石城下寺子屋飯田塾に通う。
明治 六年 白石小学校開校と同時に入学。
明治 七年 白石神明社祠家佐藤広見の養子となり佐藤定介を名乗る。
明治 八年頃 広見長男磐雄誕生。
明治 九年 明治天皇東北巡幸時給仕役奉仕。
明治一〇年 白石小学校卒業この頃郷土の国学者山田信胤の指導を受ける。
明治一二年 四月上京、神道事務局生徒寮入学。
明治一三年 丸山作楽の門に入る。
明治一五年 九月、東京大学文学部付属古典講習科入学。
明治一六年頃 佐藤広見長女すみよ結婚。
明治一七年 長女せん誕生。
明治一九年 二女なか誕生。
九月、東京大学文学部付属古典講習科国書課卒業。
一二月、東京学士会院編纂委員嘱託『古事類苑』編輯に従事。
明治二〇年 高橋ろくと婚姻関係。
四月、東京府中学校教員嘱託。
明治二一年 ろくとの子哲介誕生。
皇典講究所附設補充中学教頭。
明治二二年 山田信胤没。
明治二三年 ろくとの子徳介誕生。
一〇月二三日、佐藤広見没六一才。
一一月、国学院開校と共に講師。
一二月三日、佐藤家と離縁。
明治二四年 三月二日、高橋ろく入籍。
九月、共立中学校校長。
一一月、『教育勅語衍義』出版。
明治二五年 一〇月、『修身科用教育勅語例話』出版。
明治二六年 ろくとの子ちか誕生。
明治二七年 東京府城北中学校校長。
自宅に江義塾開く。
明治二九年 三月一〇日、佐藤広見長男磐雄没。
明治三〇年頃 吉田俊雄・佐藤家と養子縁組。
明治三二年 五月、白石大火長町鎮座神明社焼失。
明治三三年 五月、白石城二の丸跡に社地移転及び本殿造営。
明治三五年 二月一五日、長女せん没一九才。
明治三六年 六月八日、佐藤俊雄・とみよ結婚。
明治三八年 九月、神宮奉斎会宮城本部監督。
明治三九年 三月、病気に罹り一切の職務辞す。
神明社拝殿造営。
明治四一年 一二月、神宮奉斎会宮城本部長。
大正 元年 十一月四日、佐藤すみよ没五一才。
大正 四年 八月、『御大礼図譜』出版。
晩秋「片平観平碑」の碑文選定。
大正 五年 一〇月二七日付、講演原稿「立太子の御儀につきて」。
一二月、『皇典講究所雑誌』に、「明治天皇の御即位」発表。
大正 六年 五月二七日、講演史料、京都『寶筺院入佛式講演録』。
川面凡児主催禊初参加。
「横綱谷風・大砲碑」の碑文撰并書。
大正 七年 同年会による神明社寄進始まる。
十月二十七日、列藩同盟仙台藩指導者「玉虫左太夫先生五十年祭」。
大正一〇年 五月、神宮奉斎会会長。
一二月、寒禊参加(これを初回とする者もあり)。
大正一四年 五月、神宮奉斎会会長再選。
昭和 二年 「郷社神明社」名号字。
昭和 三年 五月、神宮奉斎会会長三選。
昭和 四年 四月七日、帝國ホテル川面凡児追慕会「追慕談」。
昭和 八年 五月、神宮奉斎会会長四選。
白石不惑会寄進「水屋水槽」題字。
昭和 九年 九月、血盟団事件特別弁護。
昭和一〇年 一〇月、現社殿竣功。
昭和一二年 五月、神宮奉斎会会長五選。
昭和一三年 皇道学院開講、学院長。
昭和一四年 二月二三日、東京九段軍人会館、「川面先生十周年記念会」主催・講演。
一二月三日、白石斎川鎮座田村神社・甲冑堂再建落成式参列。
昭和一五年 五月、国民精神総動員本部顧問。
八月、財団法人皇道社設立、総裁。
昭和一六年 五月、神宮奉斎会会長六選。
六月、神祇院参与。
拝殿「奉掲額」奉納。
三三年同年会寄進「神木碑」題字。
昭和一七年 「皇道史観の展開」発禁。
九月一五日、境内「今泉頌徳碑」・ 生地桜小路「今泉記念碑」建立。
昭和一九年 八月二三日、「世界皇化」の絶筆。
九月一一日、午後二時帰幽。
作表 清水 参考「年譜」『今泉定助先生研究全集一』
(日本大学今泉研究所昭和四十四年九月)他
今泉定助(定介)に係る白石神明社宮司家系図
十三代 妻
佐藤広見 さく
明二二没六一才
今泉伝吉三男
長女 十四代 長男
すみよ 佐藤伊織(定介) 磐雄
文三―大一 文三―昭一九 明二九没
五一才 二二才
加藤兵十郎 吉田昌俊二男
二女 十五代 縁女 長女 二女
とみよ 佐藤俊雄 せん なか
明一一 明一一 明一七 明一九
―昭二四 ―昭三四 ―三五 ―昭三五
一九才
二男
長男 神明社奥宮
十六代 福岡神明社宮司
佐藤清雄 佐藤正雄
明三八―昭五九
長男 二男
十七代 現宮司(十八代)
佐藤俊彦 佐藤武比古
昭一二―平一九
長男
禰宜
佐藤文比古
作図 清水(協力神明社 佐藤武比古宮司)
別表
神明社拝殿奉掲額
一品 有栖川宮 幟仁親王 皇典講究所総裁
今泉 定助 神宮奉賛会会長
塩野 季彦 司法大臣・逓信大臣
鳩山 一郎 内閣総理大臣・政友会総裁
公爵 近衛 文麿 内閣総理大臣・枢密院議長
男爵 平沼騏一郎 内閣総理大臣・枢密院議長・法学博士
久原房之助 逓信大臣・政友会総裁
俵 孫一 商工大臣・民政党顧問
筧 克彦 東大名誉教授・法学博士
水野錬太郎 内務文部大臣・法学博士
有田 八郎 外務大臣
山岡萬之助 関東長官・法学博士
島田 俊雄 商工大臣・農林大臣
公爵 一条 実孝 貴族院議員
広田 弘毅 内閣総理大臣・外務大臣
吉田 茂 厚生大臣・貴族院議員
千葉 胤明 宮内省御歌所寄人
山崎達之輔 農林大臣・逓信大臣
藤沢幾之輔 商工大臣・枢密院顧問官
頭山 満 大日本生産党顧問
男爵 本庄 繁 陸軍大将 侍従武官長
宇垣 一成 陸軍大将 外務拓務大臣
小磯 国昭 陸軍大将 内閣総理大臣
松井 石根 陸軍大将 上海方面派遣陸軍部隊最高指揮官
真崎甚三郎 陸軍大将 教育総監
林銑十郎 陸軍大将 内閣総理大臣
畑 俊六 陸軍大将 侍従武官長・中支派遣軍最高指揮官
菱刈 隆 陸軍大将
男爵 大角 岑生 海軍大将 海軍大臣
山本 英輔 海軍大将 聯合艦隊司令長官
有馬 良橘 海軍大将 教育本部長
末次 信正 海軍大将 内務大臣
子爵 小笠原長生 海軍中将 宮中顧問官
米内 光政 海軍大将 内閣総理大臣
男爵 安保 清種 海軍大将 海軍大臣
男爵 鈴木貫太郎 海軍大将 内閣総理大臣・侍従長
竹下 勇 海軍大将 聯合艦隊司令長官
中村 良三 海軍大将 艦政本部長
藤田 尚徳 海軍大将 侍従長
野間口兼雄 海軍大将 教育本部長
岡田 啓介 海軍大将 内閣総理大臣
豊田 副武 海軍大将 聯合艦隊司令長官
豊田貞次郎 海軍大将 商工大臣
百武 源吾 海軍大将 侍従武官長
小林 躋造 海軍大将
塩沢 幸一 海軍大将 南支方面海軍最高指揮官
吉見 勇助 海軍大佐 瑞興丸艦長
作成 白石神明社社務所、(一部編集 清水)