今泉定助先生の略歴と古典研究

 

ここでは今泉定助先生の略歴と先生の古典研究について説明します。    

 

一、今泉定助の略歴

 今泉定助 いまいずみさだすけ 1863~1944年 明治・大正・昭和にわたる教育者・神道家。号は竹廼舎。文久3年宮城県白石生。仙台藩家老片倉家臣今泉伝吉の第三子。明治7年(1874)、白石神明社祠家佐藤広見の養子となり佐藤定介を名乗る。同12年、神道事務局生徒寮に入寮し、丸山作楽の書生として薫陶を受け、15年、東京大学付属古典講習科に入学。19年卒業後は、東京学士会院編纂委員として『古事類苑』編纂に従事。22年、国学院創設に参画し、同校講師に就任。この年離縁した事により今泉定介と称し、41年、神宮奉斎会宮城県本部長に就任。大正10年には神宮奉斎会会長に就任し、これ以降、六期にわたって同会会長を務めた。同10年末、相州片瀬にて川面凡児の禊を修め、祭政一致の国体論を提唱し、広く政治家・軍人・経済人等に国体を講ずる。昭和7年数え年70歳この時から戸籍上の定助に復す。同8年陸軍参謀本部に於いて連続四日国体講義を行い、9年血盟団事件の特別弁護に立ち、10年満州国皇帝に対し、帝王祭祀を進講する。12年神宮奉斎会本院に於いて代議士六十余名に対し連続六日間国体講義、13年日本大学に皇道学院を設け院長として青年の教育にも努める。昭和19年9月11日没、享年82歳。主著に、『皇道論叢』『大祓講義』『国体原理』等。

(参照『今泉定助先生研究全集一』「年譜」日本大学今泉研究所編 他)

 

 

二、今泉定助の古典研究について

 今泉の古典研究ついては『皇道論叢』「古典の精神」(昭和14年)の中で「今日我が国内に瀰漫する西洋思想を克服超越し、然もその処を得しめ、肇国以来一貫する我が国の真姿を顕現せしむる事こそ昭和維新の目的」としそのためには「我が古典のうちにその真理を仰がねばならぬ」とした。その古典の内で「古事記は、最も古いばかりでなく、その内容が勅語そのものであるとし、古事記が古典の中にて有する最上至上の権威は、実にここに由来する」としている。その古典研究の態度と方法は「文献だけを墨守して行事、言霊、器教等を無視する従来の研究では解る筈がない」としている。此の態度と方法の具体的内容は『國體講話』(昭和12年夏衆議院議員六十余名に対する連続六日間講義録)によると次のように記されている。

「神典を解するのに、神様の為された事は、人間の知識を以て論ずることは出来るものではない。本居、平田の兩先生はじめ、他の学者も皆そう言って居る。それ故今日に至るも矢張り兩先生の言われた事と少しも変わらない。是が古典学の一番進まなかった原因」としている。天照大神の出現に関しても「科学的に哲学的に之を辿りますれば、必ず神様の生成化育を現された途と、吾々の学問として進む途とは、ぴったり行かねばならぬ。」とし、眼からとか鏡から生まれたと「唯其の儘に言うものでありますから、国学者なんと言うものは世の中から迂闊千萬なものである(中略)排除されたのも無理からぬことで、原因は詰り其處にある」としている。

そこで研究の方法として今泉は第一に文献とし「誰でも本を読まなければならぬことは当然で、(中略)唯本だけ読んでも分からない事が沢山あるから」次に行動、言霊、器物に依らねばならぬとしている。この行動とは、体験、体得、体現で、自分の体で試験して体で会得して体で実現して完成する、禊で言えば、小伊邪那岐になって禊を実行する意味としている。次の言霊は、本居・平田の様な言語の解釈ではなく、言葉が持つ霊魂の力の研究をせねばならぬとしている。そして最後の器物については、三種の神器を例に挙げ、その精神は智仁勇等の漢学思想ではなく日本の霊魂観から説かねばならぬとしている。

そこで今泉の『皇道論叢』「古典の精神」と『大祓講義』の概要を述べると共に、小生の小伊邪那岐になっての禊体験記を述べさせていただくことによって、今泉定助の古典研究にいささかでも接近し、それによって自分自身の神道人としての神学の構築に資すると思慮するものであります。

 

 

三、「古典の精神」『皇道論叢』概要

 『皇道論叢』は初版が昭和17年8月20日、財団法人皇道社から発行され、第二版以後は日本大学出版部に移って昭和19年までに五版を重ねている。「古典の精神」「国体論」「憲法及政治論」「禊祓について」「皇道の本義とその発揚」の五つからなり、今泉の主著の一つで、今回取り上げる「古典の精神」を含め、ほぼ総て皇道社の機関誌「皇道発揚」に発表されたものである。

「古典の精神」は七つの論文から成り、第一、古典の尊厳(昭和17年5月)第二、古事記冒頭の一節論(昭和15年5月)第三、天之御中主神(昭和14年5月)第四、生成思想の原理(昭和13年3月)第五、万有の親和力(昭和16年10月)第六、世界の祖国(昭和15年3月)第七、信仰と科学(昭和14年10月)で構成されている。

今回は「古典の精神」のうちで、日本大学皇道学院の於いて、学生に講義した〝古事記冒頭の一節論〟を取り上げ概要を述べる。

〝古事記冒頭の一節論〟

一、      高天原

 古事記冒頭の一節の訓み方は、本居先生も、平田先生も、その他の今日までの学者も、皆、この一節がよく解けていない。この一節が解ければ古事記の全部が解ると言ってもいい。これが解らなければ、又古事記の全部が解らないとも言える訳であるとしている。古典研究の態度と方法は、文献だけを墨守して行事、言霊、器教等を無視する従来の研究では解る筈がないとしている。此処では、文章の上から言って、どうすれば解るかを述べている。「天之御中主神」が発顕して「高天原」をなしたのである。即ち天之御中主神の御稜威が発顕して大宇宙をなしたのである。宇宙と云う文字は、宇は四方上下、空間を現し、宙は古往今来、時間であるとしている。高天原の「タカ」は高い意味で、「アマ」の「ア」はカに含まれ「マ」は霊の意味で、霊の形の上で「マルイ」と祖神が言葉に表したもので、到る処に充満しているものとし「ノ」は助辞で「ハラ」は張ると云う意味としている。高天原は即ち天之御中主神の御稜威が高く上り、横に張って宇宙に充満しておる意味であるとしている。

古事記冒頭の「於高天原成」と同じ字の使い方は「於屎成」と「於尿成」の三例しかなく、その他は「於頭所成」とか「於胸所成」とし、「成」と「所成」とを書き分けていて、そのものに成った時には、直ぐ「成」という字を書き、その間に媒介者がある時には、「所成」と書き分けている。古事記の表現は実に周到で、天地と一緒に時というものも出来たということを示しているとしている。

二、      「時」と「成る」

 「天地初発之時」祖神垂示に於いて「時」という事は注意すべきものも一つで、これが解らなければ先へ進めないとし、神より発顕する際が時の起こった始めにして、神に還元帰結する際が時の終わり、時そのものより言うなら時は神と共に無始無終にして始めなく終わりなきもの、神と時と宇宙とは一緒であり、高天原発顕即ち宇宙の初発の時を以て、時の根源とする。神、宇宙、時を離れたものと見ると、無神論、唯物論、存在論に陥り解らなくなるとして、天地初発之時於高天原成神名天之御中主神とあるのは、神と宇宙と時とを一体に書いてあるとしている。次に「成りませる」という言葉が非常に重要であるとし、「ナル」の「ナ」は凪ぐの「ナ」で和らぐ、調和の意味とし、「ル」は集まる、取る、来るとかいう「ル」で吸収集合する意味で、「ナ」「ル」とを寄せると、完全に調和成熟することであるとしている。外国では宇宙創造神は始めから在るもの、神は宇宙の外に在るとし「存在」が思想の基礎、日本は宇宙発顕神を成ると言って「生成」が思想の基礎となっている。存在思想は自分の思想を存在させんが為に他を排撃しなければ自分の存在が保てない。生成思想は宇宙の神が万物を生成化育包容して何者をも排撃しないとしている。天之御中主神が自然の本義を発露して宇宙全部を顕したのであるから、万有は総て天之御中主神と一体、従って君国一体君民一体が宇宙の真理としている。古典は神様の御名前を分析すると御本質が解る、御名の中に、神徳、神功、神業、神力が皆現れていて、主観的には神格の発揮であり、人間は神習って人格の発揮、事業の建設を行いお互いに自性の発揮を目的として立派なバイブル、経典であるとしている。

三、      天之御中主神

 川面凡児の天之御中主神論

天之御中主神の「天」は、古事記の寛永本が「アマ」と訓んでいる以外、延佳本、真福寺本、前田本等は「アメ」と訓み、高天原と云う時だけ「アマ」と訓むべきとする本居先生等の論で、今泉も高天原に特に註があって「アマ」と訓ませていることから、「アマノミナカヌシノカミ」と訓でいるとしている。

しかし川面は「マ」でなければならぬというのは、霊を指しているとし、人間の方から宇宙を見て、一番驚いた言葉が「ア」であり、それは「霊」の充満しているのに驚いて「アマ」と言っている。次に「マ」の中に又霊があり「ミ」がある。更に「ヌ」と言う第三の霊が実在し、その第三の霊は主宰者として第二、第一の霊を主宰統一され、次に「シ」という霊は全一霊と申し、この全一霊が三霊を有しているとし、宇宙間何ものでもこの三段で形をなし、それを直霊、和魂、荒魂としている。人間に就いて言えば、荒魂は肉体、和魂は精神、直霊は潜在意識としている。

次に今泉は、天之御中主神に就いての見解の例を挙げている。

天之御中主神は一である。一は幾度算へても一に還る。天之御中主神を精神として眺むれば、心である。天之御中主神を物質として考えれば、元素、分子、原子、電子というものになる等を上げ、「アマノミナカヌシノカミ」という言霊一つに宇宙の全内容が顕されて居り、日本では天之御中主神という一体の信仰で統一され、その宇宙観は中心と分派との関係、根本と抹消との関係としている。それは中心分派帰一一体の真理、根本抹消同根一体の真理であり君民一体君国一体が宇宙の真理としている。

四、      高御産巣日神、神産巣日神

 本文に「次に」とあるのは、本居先生古事記伝に述べている様に、兄の次に弟の生まれる様な横の意味の「次」であるとし、タカミムスビ、カミムスビが、古事記では「産巣日」日本書紀では「産霊」の書き分けに、祖神垂示の古典の用意周到さが表されているとし、考証学者としては是非とも解決して置かねばならぬ問題としている。更に延喜式の中に「高御魂」「神魂」、新撰姓氏録おいても「神魂」となっているが、一、二箇所「神御魂」と書かれている。「産巣日」の書き分けは、霊魂観そのもの説くことになる。霊と日との別を申すと、神それ自身から主観するときは「霊」の字が当り、客観的に見られる場合に「日」「火」等になるとしている。「ムス」は「蒸す」の意であり、今まで顕れなかったものが出て来ることを「蒸す」と言い、日本では大自然の造化を産巣日と言うことになるとしている。「独神成ります」は二つの意義を持ち、一つは、耦生の神で無いということで、もう一つは、父母が無く顕れた神様という意が含まれている。「隠身也」を、本居先生は「ミミヲカクシタマヒキ」と訓んで、顕れて直ぐ去り、また神の方からの読み方で穏当でないとし、「カクリミ二マシキ」と人間の方から読み、人間には見えない、我が神の境地に入って始めて体得しうる神様の意としている。日本は生成思想は、天之御中主神と云う絶対の中に、高御産巣日神、神産巣日神と云う相対があって始めて産霊の効用を顕し、宇宙の生成発展が顕現されると云う真理を、古事記は明瞭に教えているとしている。古事記によって説いている処は、宇宙万有なのであるから、科学と矛盾する訳が無い。西洋の科学も、もっと進んで来たなら、日本の霊魂観が理解出来る様になり、直霊、和魂、荒魂という霊魂観は科学の進歩に貢献し、智情意と云う精神作用も、奇魂、幸魂、真魂と云う和魂の作用であり、その奥に直霊の働きがあるとする日本の学問を西洋風に順序立てて説明することは、これからの者の責務としている。

五、      国生み

 我が民族思想というものは、神が一切のものをお生みになったものと思って居て、外国では、多くは神が一切のものを造ったとしている。「生む」と云う場合は、神自身の中から顕れて来るを云い、「造る」と云う場合には、神以外のものの存在介入があり、人類万有は神とその種を異にし、神と人類万有との隔絶を生ずる。国家を形式的に見れば、外国人の言う様に国土、人民、主権の三要素があるが、各個別の三要素が集まって国家を造ったというのが外国である。日本では三要素が別々のものではなく、国生みの思想で三位一体となって宇宙万有同根一体の真理を顕現している。日本は統一ある多神教で、天之御中主神一神として解き、八百万神は皆天之御中主神の分霊分魂の働きであり、万神一神に帰し、一神万神を統一して出来るのが日本の神ながらの道のたて方である。今日の祭祀は支那流の倫理的厳粛さにのみ流れて、神職奉務規則にも「祭祀は国家の彛倫の標準」とあって、内務省の定めた祭祀の意義までが倫理だけに終わっているのは甚だ遺憾である。日本の祭祀には神と神の子との関係、親子の情愛が生きていて、それが個人を導き、家庭を導き、世界を導いて行かれるので、これが真の宗教でなければならぬとし、一切の国体論はこのところから出てこなければいけないとしている。そして宇宙を発顕せられるのが天之御中主神であり、此のの宇宙を主宰せられるのが天照大御神であり、歴代の天皇は大嘗祭によって天照大御神そのままのお方となられる。

それで結局、

天之御中主神

天照大御神

天皇

これが我が国体の根源であるとしている。

                  『今泉定助先生研究全集二』26~61頁

                  (日本大学今泉研究所昭和44年11月)

 

 

四、『大祓講義』概要

第一講 総説第一 

大祓は大体が行事であるのに、行事はまるで捨てて、文献たる祝詞のみを解釈して、それで大祓の全部としているため、真の精神は 掴めないとしている。行事即ち実行であるから講釈は出来ない、出来ないまでも行事を心得て文献を説けば、不完全ながらも大祓の精神が出てくるとしている。従来行事を知らないで解釈していて、四大人を始め学者は大祓を解っていないとしている。

大祓における大切な箇所は、「天津金木」「天津菅曾」及び「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」で従来の説明は穏当を欠き、これは祓禊の精神を理解していない事によるもので、祓禊は古神道の入口ありその全部であるとし大祓は幣の行事であり、禊は水の行事であり行事は講義の仕様がないとしている。

本居宣長は古事記伝で祓は心に関係なく、肉体だけのものとしているが、罪穢に対し心肉不二である精神、肉体が別々のもので考えることが間違えであるとしている。我の人格統一が崩れたとき祓と禊が必要となる。祓は客観的には「払う」であり主観的には「張る霊」禊は客観的には「水注ぎ」主観的には「霊注ぎ」で神の御霊を注ぎいれることであり、罪汚を削ぎ取る意としている。

神典上今まで祓禊が力を得なかった理由として、宣長、平田篤胤の善悪交替説よる祓禊軽視を挙げている。

 

第二講 総説第二

 大祓の根本の対象は神であり、神に合一するという事が祓の目的としている。

日本人の先祖は一つの御霊として、言葉に霊魂があると信じ、且つあるとし神の言霊の解釈として神の「か」を「隠れる」とし「み」を「霊」の意味としている。神の本質は宇宙万有悉く皆神で唯それ等に大小精粗の区別があるのみとして、大宇宙の大中心、大根本、大本体は天御中主神であり、八百万神はその分派的、抹消的な神々であるとしている。

第三講 総説第三

 神に対して他の国々の宗教は直ちに宇宙の大根本神に頼るが、日本民族は自分に一番近い親を祭り、祖先を辿って、宇宙の大根本神に辿り着こうとするとして、神道と宗教の比較を行っている。

神道        宗教

一、          国民的(公的) 個人的(私的)

二、          現在的     未来的

三、          自然的     不自然的

四、          積極的     消極的

五、          立体的     平面的

六、          包容的     排他的 

日本の神道は、結論的に言うと実質、実体を持っている、それが他の宗教と異なる点としている。その実質は心眼を以って見、心耳を以って聞くのであり、祓、禊、鎮魂をして神の声を聞き、神の姿を見る境地に達する事に努めねばならず、神主は祓戸の神と合一することに於いて、始めて人を祓う資格が出来るのであるとしている。

我々は神の分霊分魂でありますから、万一間違いを起こしたときは、再び神の魂に還らなければいけないとし、白玉が泥中にまみれても洗い戻るが如く、これが大祓の眼目であり精神であるとしている。

第四講 総説第四

 大祓の起源は、伊邪那岐神が筑紫の日向の橘小門の阿波岐原に於いて御禊し給いし事と、須佐之男命に対し千座置戸の祓具を科して神逐らひ逐らひ奉った、この二つの事を以ってする事に誰も異存がないとしているが、しかし極めて軽いものに見ているが、軽視すべきものではないとしている。この祓の精神が解らないために、祭とは如何なるものかがわからなかった。祭と言うことは、神と人とが合一する事が祭の根本精神であり、この精神を要求して、これを実行する事が即ち祭である。そして政事は祭の根本精神を人生生活の一般の事柄に実現される事であるとしている。大祓の意義は、国民全体を祓うと言う事だが、根本は天皇の大身祓が元であり、大祓の根本精神は質素剛健でありそこから勤勉の精神が生まれるとしている。

大祓の一番最初に行うのは、天地人の三段の行事で、天を祓い、地を祓い、人を祓い、結局宇宙萬有を祓う、それは日本精神が彼我一体の精神であるとしている。

第五講 総説第五

 大祓の神は祓戸の神として大祓祝詞にあります四柱の神が、従来からの学説であり本居・平田両翁も信じている。

(瀬織津比咩神・速開都比咩神・氣吹戸主神・速佐須良比咩神の四柱の神)

しかし大祓の神は、所謂外を祓う神で人の外に現れた罪穢を祓うので、我々の精神の中から罪穢を祓い去るのは、この四柱の神では説けないとし、この四柱の他に祓戸の神が無い様に考えたのは、本居・平田両翁を始め代々の学者が、行と云う事をあまりに軽視せられる結果としている。

四柱の神は、肉体の外面に出たものを祓う所作を表したもので、其の他の神とは、神祇官の大祓の神で白川家の『伯家部類』(一七五四年成立)に之が書いてあるとしている。『伯家部類』は嫡々相伝の秘書で、それには九柱の神を神祇官の大祓の神として祭り、九つの幣束を立て、お灯明も御神食も御神酒も各々九つ供えられているとしている。

神祇官大祓の神

八十枉津日神・底津少童命・底筒男命・大直日神・中津少童命・中筒男命・神直日命・表津少童命・表筒男命

此の九柱の神は古事記に書かれているが、平田篤胤は『古史伝』(起稿一八一二年)に於いて、此の阿波岐原の禊祓の神々を、大祓の神とする事は誤りであると罵倒しているが、逆に平田の方が誤りとしている。

少童命(紀)綿津見神(記)の「わた」は「渡る」で横を表し、筒之男命の「つつ」は縦に衝き立つ意を表し縦横三段宇宙隈なく祓う意味としている。

そうして四柱の神は表の神、此の九柱の神は中の神として最後に、奥の神としての生魂、足魂、玉留魂を説いている。

この三柱の神は古事記、日本書紀にはなく『古語拾遺』『延喜式』だけに八神殿の神として記載されている。

日本の神典というものは、古事記にある事はなるべく日本書紀には書かない。又日本書紀古事記に無い事は古語拾遺、祝詞等に書かれており、文献に現れて居ないものは、行事、言霊、器物等に現れて居ます。器物とは三種の神器を始め、天津金木とか、天津菅曾や神宮等のお宮の建て方にも注意しなければならないとしている。又文献として記紀を見た時も例を挙げて神の御名、詔の省略を読み足していかなければいけないとしている。

                      今泉定助『大祓講義』3~67頁

                        (三省堂 昭和17年7月)

 

 

五、小生の禊記

今泉は神道古典の記紀を理解するための行動として、体験、体得、体現で、自分の体で試験して体で会得して体で実現して完成するとしている。それは禊で言えば、小伊邪那岐になって禊を実行する意味としていることから、稜威会が実施している禊に参加し、その自らの体験、体得、体現を稜威会機関誌「みいづ」書き記したものを最後に付けさせていただく事によって、神職として今後新たに人生進むに当たっての、神道古典、古事記を通しての自らの神学構築のスタートとしたいと思慮している。

(一)平成十九年夏禊記

夏禊 この軽井沢相生瀧には、漫然とか、偶然とかで、やって来た訳ではない。この十年間、否その前から寸分の狂いもなく計算された時の流れの中を歩んで来て、たどり着いたと強く感じての参加だった。戦前の教育家であり神道家、今泉定助先生の没後の門人として神道を学ぶ自分は、国学者今泉先生が大正六年(十年とする者もあり)川面翁の禊に参加し数年の沈黙、熟慮の後、神道人として行動を開始した様に、今泉先生の域に遠く及ばないささやかな一歩ではあるが、この春桃禊に初めて参加し、道彦浦野先生の指導を受けた時、初めて神学の道に一歩踏み込める自信が生まれた。これは本物に出会ったと確信したことから生まれたものだった。しかしこの夏禊の初日二日目では、玄米粥と梅干の食事に腹を空かし、拝神ではあまりの膝の痛みに耐えられず途中帰宅を考えながら眠れぬ夜を過ごしていた。それが四日目を迎えると心と体に爽やかな風がビュンビュンと吹き抜け出し、玄米粥も少量で十分となり、助彦米本先生の整体もあって膝、腰も軽やかになって五日目を迎えた。正に体と心、荒身魂と直霊がリフレッシュして生かされている喜びを体感した。そしてそれは相生瀧とこの瀧を三代に亘って御守いただいている愛敬峰雄氏と道彦先生方に対する厚い尊敬の念と深い感謝の思いに変化していった。これからは禊中の體験、體得、體察を日常生活で少しでも長養し護持すべく過ごす所存でおります。

(二)十九年菊禊記

菊禊を終えて三日たった。荒身魂としての身体は疲れの中に漂っているが、直霊がチョロチョロと残り火の様に揺れ動いている様に感じている。それは心の透明感と言っても良いものである。今回の禊は「二川伏見いなり」と遠州灘、その海岸には三日間ほとんど人っ子一人いず、広大な稜威會専用禊道場の感がする神秘的な雰囲気の中で進行していった。三日禊は短すぎると言う声もあると聞くが、今禊は神示によって荒波のそれは特に激しく強烈で、しかしそれにも関わらず暖かく優しく包まれたような感覚の中で行われ、五日に劣らない十分な稜威を頂いた。川面先生の御教の中に宇宙と言う言葉が多く語られるが、私には机上で考え仕事の行き帰りに見上げる空位にしか宇宙を捉えていず先生の考えにおよびもつかないものを感じていた。しかし今回の禊で天御中主太神は二日目の潜海時、水平線から太陽が上がりだすと、その天空に月と金星を輝かせ、地球との四神の関係を眼前にジオラマの様に示しながら、褌一つの吾身に、大宇宙から流れ来る大気を全身で受けさせ神々しい中で宇宙を體感させた。これは古事記の中の神々との合一でありフレイザー流の学者達の「安楽椅子」の中では到底捉えられないものであることが體得出来た。家人の病気平癒として風呂上りに水をかぶり続けて二十五年が過ぎだが、このことを身注ぎとしての禊として始めたか、潔斎として始めたか自分自身でも分からなくなってしまったが、神宮五十鈴川の禊を経て大天照太御神の大稜威によって菊禊に至ったと體察している。それは今回の禊は鋭敏な状態の和身魂に導かれての参加であり、初日は研ぎ澄まされた高揚感の中でスタートし二日目は前述の宇宙體感もあって、拝神中も和身魂があっちこっち飛び回り乱高下が激しく色んな幻想と戯れ、荒身魂も騒ぎ出し脚の痛みは半端でなく、中日の玄米粥の小豆の甘さに強烈に感動するといった状態だった。三日目も大祓戸大神が横に縦に荒波を教典の様に綿津見三神をして横に三段、筒之男三神をしては縦に三段と実際に體驗させて下さり、海岸での終禊祭では辺り一帯白っぽい幻想的な祭場に、太陽の光が差し込むと同時に雨が舞うと言う、不思議な神々しさを體驗させていただきました。そして初回の桃禊の時と同様に浦野先生の奥様の直会の料理に、ただただ感動して菊禊は終了した事などからもそれを體察している。

 

(参考)

川面凡児・稜威会の略歴
文久2年 大分県宇佐郡小坂村に生まれる。
明治39年(45歳)稜威会本部を設立。「大日本世界教宣明書」出版。
明治41年 機関雑誌「大日本世界教」(みいづ)発行。
明治42年1月 神奈川県片瀬で第一期大寒禊を執行する。
大正3年 古典攻究会創立。
大正4年 「古典講義録」出版。
大正6年 軽井沢相生瀧で第一回夏禊執行。古典攻究会閉会。
大正10年 社団法人稜威会申請許可。
昭和4年(68歳) 2月23日帰幽。
昭和58年 「みいづ」復刊。
平成3年 稜威会本部禊祓道場 新築落成
平成10年 宗教法人 稜威会となる。

                      (編集 管理者)

 

 

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